マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

心の貧しい人は幸い

あかつきの村今、私は前橋修道院に派遣されています。前橋修道院は畑の広がるとても環境の良い所にありますが、残念なことは付近にお店も教会も何もないところです。そこで私たちは毎週2回あかつきの村で捧げられる夕方のミサに参加させて頂いています。あかつきの村とは、故石川能也神父様が「愛するが故に、ひとりひとりを自由な人間として認め、更にその上で、助け合う喜びが発見できるような、小さな村をこの地上に、具体的につくろうではありませんか。」と呼びかけて1979年に創立された共同体で、1982年からはベトナム難民を受け入れました。現在は精神を病み一人では生きていけないベトナム人や日本人のグループホームになっています。

ある雨の水曜日、いつのものように、数人でミサCIMG2511-2%20(280x210)に与っていると、福音朗読のころ、ベトナムのDさんが聖堂に入って来られました。Dさんは、青年時代には、オルガンも上手で侍者をし、将来は神父様か?と皆が期待したような青年だったそうですが、あまりに心が純粋すぎたためか精神を病み、今はあかつきの村でゆったりと生活しておられるベトナム男性です。最近では言葉の問題ではなく、あまり何を言っているのかがわからないような時もあるのですが、ミサの答唱句をきちんと日本語で唱えておられるのです。きちんと正座し、ミサに与る姿は、聖年時代のDさんの姿を彷彿させるようでした。そしてミサが終わって外に出ると、彼が何か叫んでいます。最初私は何を言っているのかが分からなかったのですが、よく聞くと「雨がひどくて神父様が教会に帰るのがたいへんだから、自分の部屋に泊まってください」ということを必死に片言の日本語で伝えようとしてるようでした。「雨いっぱい!」「たいへん!」「僕の部屋ある!」「泊まるといい!」と短い言葉を繰り返しているDさんの姿に神父様始め、私たち皆本当に感動しました。

そのDさんの姿を目にして、「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ5:3)という聖句が心に浮かびました。物的にも精神的にも貧しいように見えるDさんこそが、神様の「幸い」を生きておられるのでしょう。Dさんから、真の幸いを教えていただいた雨の夕べでした。  (N.H.)