マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-24

 

熊本修道院の姉妹たちと修練者1911年の総評議会の決定により

北イタリアとスイスと同じ管区として再出発した日本の共同体

1911年(明治44年) 6月2日より24日までロ-マで開かれた総評議会は、創立者の帰天後初めて管区の再編成に乗り出しました。というのは、当時 本会は、ロシア、東欧、中近東、南米へと広がり、11管区にまで発展していたものの、欧州から遠く離れている宣教地では創立者の精神が希薄になるという新たな局面を迎えていたのです。そこで、総評議会は、すべての管区が欧州と宣教地の修道院の両方をもつことに決め、宣教地に設立された修道院を、創立者によって会の堅固な基盤が据えられている欧州の修道院と同じ管区に編入させることで、会の精神を深く浸透させ、使徒職との一致を図ることにしました。これに伴い、管区長は3年間で管区の全修道院を訪問し、その不在中を副管区長が代行する形をとりました。その結果、宣教地の日本は、会の堅固な基盤が据えられている北イタリアとスイスと同じ「無原罪の聖母」管区に編入され、 新管区長として任命されたベルギ-人のMステファナ・ドュ・サクレ・ク-ルと日本の副管区長となった熊本修道院のコロンブ院長のもとで、新しい旅が始まりました。

この総評議会において、過去8年の経験をもとに、宣教地における召命の見直しが行われました。その結果、これまで中国、インド、日本の宣教地における若い女性の入会条件に準会員として10年間生活することが義務づけられていましたが、この条件は除去されました。更に、この3か所の宣教地に、その土地出身の修練者を養成する修練院の開設が正式に認可されました。初期養成に関する決定事項によると、修練院の一年目は「修道者としての養成」に専念し、二年目は「使徒職の養成」としてそれぞれの適性に応じて実習に出てよいこと、そして、看護婦の資格取得のためには赤十字のコ-スへ、アトリエ(授産所)の先生として技術習得のためにはスイスのフリブルグへ、家政学校のためにはベルギ-のブルクセルへ、英語の勉強にはロンドンへ行くことが勧められています。しかし、誕生したばかりの日本の修練院では、今後の方針として、会憲に規定されている事柄を学習し、共同体に十分に溶け込んでいけるようにフランス語を学ぶことが要求されました。

更に、本会のアトリエ事業についても再検討がなされ、作品には芸術的な特性を生かし、働く女性には一般のサラリ-以上の給料を与えられるように努め、主婦には家庭にいながらできる内職を与えて家族の幸せが保証されるように援助し、シスタ-たちがキリスト教的な影響を与え続けられるようにすることが再確認されました。

尚も続く迫害の嵐の中で

日本におけるFMM共同体が新管区長のもとで新たに歩み始めた1912年は、7月30日に崩御した明治天皇の後を継がれた大正天皇の即位により新しい時代が明けた年でした。明治天皇の治世に長年の禁教令が完全に撤廃されて全国民に良心の自由が与えられたかに見えましたが、日露戦争に勝利すると、政府はこの勝利が神道のおかげであると言って全国民に神社参拝を義務づけました。この国にも民主主義が芽生え始めていたとは言え、国民は尚も天皇の神を信じるように強いられていたのです。民主主義と軍国主義がぶつかり合う日が必ず来ると予想しながら、宣教師たちは福音宣教の使命を続けました。キノルド司教は、日本のどこにでも見られる当時の社会状況を次のように分析しています。

日本でキリスト教の信仰を伝えるのは非常に難しい。常に困難がつきまとう。国民は最近の戦勝と科学的な進歩に酔いしれて、もはや宗教は不必要と考えている。どの国公立の学校でも宗教を除外しているが、実際には天皇の宗教である神道だけは教えている。政府は小学校を独占しているが、宣教師たちには何一つ権利を与えていない。高等教育を行うためには政府の認可が必要であるが、それさえも 宗教を教えないという条件付で認められている。そういうわけで、私達は 若者に接する機会をつくるために 学生寮を開く方がよいと考えた。

管区長が1913年 (大正2年) から1914年 (大正3年) にかけて日本を訪問したとき、カトリック教会はこのような難しい状況にありました。

札幌信者の集い開拓地における札幌修道院の役割 

北海道は人々の信仰心を開墾するという意味でも、期待できる主のぶどう畑でした。この広大な土地を耕すために、ベルリオ-ズ司教はできるだけ早く北海道の司牧をフランシスコ会に全面的に委譲したいとの考えでしたが、北海道の司牧宣教の先駆者として福音の種を蒔き育ててきた函館の同僚たちから承諾を得るのは難しく、時が熟するのを待つしかありませんでした。その日に備えて 司教はフランシスコ会の宣教司牧地域を少しずつ広げていきました。1912年のフランシスコ会の統計によると、当時フランシスコ会は5つの司牧拠点のほかに、天使病院と学生寮を受け持ち、およそ300名の信徒の世話をしていました。OFMの10名の司祭と7名の兄弟の宣教活動に7名のFMMが参加したばかりでした。

このような実情の中で、管区長は、教会の余りないこの地域に神の国を広げていくために札幌の共同体がいかに重要な役割を担っているかを話し、今後の宣教生活に明確な方向性を与えて、一同を勇気づけました。確かに、札幌方面の教会は建ってまだ日も浅く、女子修道会もFMMだけしかなく、おのずと信者の若い女性たちはFMMのもとに集まってくるので、FMMは教会共同体のメンバ-をつくり育てる大切な役割の一端を担っていると言うことができました。やがて、修道女と一緒に祈り一緒に働きたいと望む女性たちが道内の各地から天使病院へ働きに来るようになりました。度々人材不足に悩まされてきた共同体にとって、これは、必要な時に必要な人材を送ってくださる神からの大きな賜物でした。

およそ9か月間の日本滞在中、管区長は共同体のシスタ-たちがどのように宣教生活を送り、どのような活動をしているかを見て周りました。しかし、1914年 (大正3年) 7月28日に第一次世界大戦が勃発したため、それ以降 欧州にいる管区長と直接コンタクトを取ることができなくなりますが、摂理的にも、管区長の日本滞在中に総評議会が決定した会憲の規定に従って養成に関する明確な指針が示され、新しい時代の呼びかけに応えて修道院と聖堂の新築が集中的に行われました。

人吉