マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

主の祈り

私は、毎日唱えている「主の祈り」で、この私の罪を引き受けて、父なる神様に祈っていて下さるイエス様に出会い、自分自身が救われた体験をしました。それを是非分かち合いたいと思います。

それは私の若い頃、イエス様と出会った時のことです。
当時、もうイエス様と私とは固くひとつに結ばれて、イエス様の思い・心を、私の思い・心として生きていきたい!という願いだけで、幸せで喜びの日々でした。その1,2年後のことですが、
その時の私は、イエス様の思いどころか、自分自身の思いが優先し、自分のしたいことをしていました。あれほどイエス様のように生きたいと願っていた筈なのに、です。気がついてみると、いつも私のうちにいて下さったイエス様が見えなくなってしまい、もう私から遠く離れてしまわれたように思えたのです。一緒に父なる神様のみ心を行っていこうと約束した筈なのに、イエス様を裏切って自分の満足のためにだけ生きていたのです。それに気づいて、自分の罪深さにうちひしがれていました。

その頃、ミサの中で、「主の祈り」を祈っていた時のことです。
「天におられる私達の父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。私達の日毎の糧を今日もお与えください。私達の罪をお赦し下さい。・・・」
ここまで祈った時、本当に驚いてしまいました。「主の祈り」は、主が教えて下さった祈りと言われますが、私は、主ご自身の祈りだと気づいたのです。しかも、イエス様は、「この人の罪をお赦しください」と父なる神様に祈られたのではなく、「私達の罪をお赦しください」と祈られたのです。この私の罪を引き受け、「私達の罪」とおっしゃったのです。もう、イエス様は罪深い私から離れて遠くに行ってしまわれたのではなく、その時思ったのですが、私が地獄にいるのなら、その地獄に降りてきてまでも、この私の罪をご自分も引き受けて下さり、父なる神様に「私達の罪をお赦し下さい」と祈られたのです。その時、思わず旧約聖書の詩篇139が浮かんできました。このように記されています。

私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。

私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

たとい、私が天に昇っても、そこにあなたはおられ、

私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、

そこでも、

あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。(Ps.139,7-10)

・・・・私はもうイエス様から捕えられ、私がどこに行こうとも、イエス様はいつも私と共にいて下さるのです。イエス様は罪深い私から離れて遠くに行ってしまわれたのではなく、私と共にいて下さり、それも、この私の痛み、悲しみ、苦しみ、そして罪すらも引き受け、父なる神様に祈って下さっているのです。「私達の罪をお赦し下さい」と。もう、涙、涙でした。
本当に、私は救われたのです!(Sr.H)