マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-15

北の地にも蒔かれていた福音の種

函館大沼公園

先ず、最南の地に蒔かれた福音の種が キリシタンの迫害時代に 最北の地・蝦夷が島にまで飛んでいた事実に注目したいと思います。キリシタンの全滅を図った幕府の禁教令がかえって キリシタンを国の方々へ追い散らし、そこに落ちた福音の種を芽生えさせてしまったのです。特に、蝦夷が島に通じる津軽地方には 京都や大阪から流されてきたキリシタン集団が密かに暮らしていました。キリシタンたちは 長崎にいたイエズス会士のもとに再三手紙を書き、牧者不在のこの地に司祭を派遣してくれるように頼んでいました。その結果、アンジェリス師が 変装しながら 遠路はるばる津軽に派遣されてきました。津軽海峡を渡ると、蝦夷が島の最南端にある箱館(現在の函館)に上陸します。

 フ-ベル師の「蝦夷切支丹史」によると、箱館にも、迫害を逃れて遠くからやって来たキリシタンが大勢 住んでいました。そこに築城した松前藩主が彼らを金山の労働者として雇っていたからです。当時の日本地図には「蝦夷が島」が白紙のままになっています。そのことからも分かるように、日本人がエゾを外国のように考えていたとしても不思議ではありませんでした。松前藩の殿様も キリシタン禁制時代に 「エゾは日本ではない」と言って 幕府の命令に従わず 多くのキリシタンを雇い、千軒岳から流れる砂金の山から多大の利益を得ていました。実際、そこで働くキリシタンたちは、迫害を受ける心配もなく 安心して幸せに暮らしていたと報告されています。このことを司祭が初めて知ったのは、この藩主がキリシタンとは知らずに津軽から呼び寄せた医者を通じてでした。摂理的にも、エゾ地に渡ることになったこの医者に、司祭はエゾ地には宣教の可能性がどの程度あるかを報告してくれるように頼んでいたのです。

 この医者の報告をもとに、司祭自身も変装してエゾ地に入ることになりました。その目的はゆるしの秘跡を望んでいる信者の求めに応じること、そして 原住民・アイヌへの宣教の可能性と未開未知のエゾ地について詳しく調査することでした。年一度の訪問は 3〜4名の司祭が交替で 1618年から4年間 続けられました。この司祭たちは、訪問の都度「蝦夷報告書」を書き、エゾ地最初の宣教師として後世に貴重な資料を残しましたが、どの司祭も江戸幕府に捕らえられて殉教しています。

 本土でキリシタンの血が流されていた時でさえ、千軒岳金山を本拠とするエゾ地には弾圧らしいものは何ひとつありませんでした。しかし、1637年の島原の乱で幕府の禁教政策が強化されると、松前藩主にもキリシタン厳重取締りの命令が下され、その3年後には金山で働いていた106名のキリシタンが千軒岳で処刑されました。それでも、キリシタンの心に灯されたキリストの光は、決して消えることがありませんでした。

それから200年余、1859年に教皇から日本の宣教を託されたパリ外国宣教会が、幾度も失敗に失敗を重ねた末、ついにエゾ地に入ることができましたが、キリスト教禁制が解かれるまではドロ沼状態が続いていました。

 1868年、明治時代を迎えて、明治政府は、「江戸」を「東京」と改め、政治の中心を京都から東京に移しました。また 「エゾが島」を「北海道」と改めて開拓に乗り出すと、本土から大勢の移民団が流れ込んできました。特に、信仰の自由な新天地を求めて移動するキリシタンの群れが入り、仏教徒の各派も宗教圏を広げにやってきました。政府は、相変わらず キリスト教弾圧を続け、わざわざ彼らを最も厳しい開拓地に送って開墾中に落伍させるように仕向けてその土地を奪うという政策をとったとも言われます。

開拓資料館として開放されている北海道庁

 1873年 (明治6年) にキリスト教禁制が撤去されると、一斉にプロテスタント諸派の宣教師が函館に上陸し、アイヌの宣教に着手しはじめました。明治政府が開拓使を函館に設置して北海道の開拓を本格化させると、開拓民の文化向上のために多くの外国人が指導者として招かれました。この時期だけでも、アメリカ人46名、中国人13名、ロシア人5名、イギリス人4名、ドイツ人4名、オランダ人3名、フランス人1名の合計76名が招かれています。その大半はキリスト教の関係者でしたから、北海道は 早くからその影響の下に 発展していきました。その多くはプロテスタントで、札幌農学校に招かれた ウイリアム・スミス・クラ-ク博士がその良い例でした。長官から学生の徳育教育を依頼された時、彼は「私が学生に教えることができるのはキリスト教だけ」と言い、校則については「紳士であること!これで十分」と答えています。当時、まだ政府のキリスト教に対する偏見と迫害は続いていたので、彼は時の役人たちと大いに議論を交わさなければなりませんでした。結局、長官は彼の教育を黙認した形になったのです。こうして、札幌は、クラ-ク博士の「少年よ、大志を抱け」という言葉に代表される キリスト教の自由な雰囲気に包まれた異国情緒あふれる都会として発展していきました。北海道開拓期におけるキリスト教の役割は大きく、特に、教育と福祉の面に力を入れ アイヌ人の教育にまで活動を広げた海外宣教師たちの働きは、北海道開拓史に大きな足跡を残しました。