マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

シスター大橋登美子の巻

―ご出身地は? どんな家庭環境の中で成長されましたか?

img013 私は滋賀県の大津です。家はお寺で、8人兄弟の末っ子として生まれました。伯父には子どもがいなかったので、私は生まれてすぐ、大阪の伯父夫婦の子どもとして貰われていきました。そして、そこで私は修道院に入るまで、伯父の夫婦に貰われていったことも知らず、伯父の子どもとして育てられました。兄弟たちとは長いこと従妹のようにして育ちましたが、修道院に入る前に姉からその事実を聞かされました。一人っ子で育った私は、育ての親から大切にされていたので、実の親でないということは、とても信じられませんでした。また育ての親は死ぬまで、私に本当のことを知らせませんでした。

両親は、私の性格が落ち着かず、あわて者だったので遠方の女学校に入れるのが心配で、家の近くにあったミッションスクール、大阪信愛女学校に入れました。私と両親は、そこで初めてキリスト教に出会いました。私は十字架というものが怖くて、いやだと思いましたが不思議なことに入学してから、学校の聖堂に行くのが大好きになり、休み時間にはそこが唯一の喜びの場所でした。そして聖堂でシスター方の祈っている姿を見て修道院に入りたいと思うようになりました。

―洗礼はいつ、どんなきっかけで?

洗礼を受けたいと思いましたが、両親の猛反対があり、その望みを持ったまま5年間の学校生活が過ぎました。卒業後、多くの友達が増え親を困らせる程遊びました。女学校で学んだキリスト教の ことなど、すっかり忘れてしまい・・・・。

ある日、いつもの様に友達と楽しく道を歩いていた時、img016偶然女学校時代の恩師に出会いました。恩師は私を穴のあくほどじーっと見つめて、私から目をそらせませんでした。私は悪いことはしていませんでしたが、恩師の姿にドキッとして足が前に進みませんでした。それからすぐ近くの関目教会に行きしばらく祈り、家に帰ってきましたが、その時から私の生活は一変しました。今まで付き合っていた友達とは別れ、洗礼を受けたいと親に話しました。私があまり遊び呆けていたので心配していた親は、洗礼を受けたいという私の望みを、受け入れてくれました。そして18歳のクリスマスの時洗礼の恵みをいただきました。

受洗後、私は毎日ミサにあずかり、家でもよく祈り両親を大切にしながら過ごすようになりました。そのうちに父は重い結核にかかり、母はリュウマチになり、両親共、不自由な身となりました。それで私は家で両親の看護をしながら洋裁の仕事をして、家計を助けました。その頃から私は修道生活を望むようになりました。それで洗礼を授けて下さった神父様に私の心を打ち明けたところ、神父様は「あなたは一人っ子だから、両親が洗礼を受けない限り、修道院に行くことはできません。」と言われました。その後、父はだんだん病気が重くなり、神父様が家に来てくださり、父と母二人に神様のお話をして下さるようになりました。その後、両親は入院しましたが、入院中洗礼のお恵みをいただきました。両親が洗礼を受けたので、私は今度こそ修道院に行けると思い再度神父様に話したところ、神父様は私に「もうしばらく両親と信仰生活を一緒にしてからでないとだめです。」と言われました。

 ―FMMとの出会いは?

それから、洗礼を授けて下さった神父様は、関目教会から夙川教会に移られておりました。そこで、ある日私は神父様を訪ねて夙川教会に行きました。神父様は私が修道院に入りたいことを知っていらっしゃいましたので、私を夙川にあるFMMの修道院へつれて行って下さいました。それが私にとってFMMとの最初の出会いでした。私はその時一瞬にして私の居場所はここだと思いました。その後、私は入院中の父の所に行き、修道院に入ることを打ち明けました。父は「自分も洗礼を受けたので神様に断われない。」と言って泣きました。また、母は「登美子と一緒の所で死にたいから、修道院に行かないでほしい。」と言うのでした。そんな状況の中で一人っ子の私は病気の両親をおいて、夙川で志願期を送り横浜にある戸塚の修練院へと向かいました。

―入会後の生活は?

修練院での生活は、時には厳しいこともありましたが、私の望みをかなえるために苦しい犠牲をしてくれた両親のことを思い出すたびに乗り越えることができました。

2年間の修練が無事に終わり、初誓願を立ててそれぞれ各修道院に派遣されるわけですが、私は修道院に入る前に洋裁の勉強をしていたので、修道院の中で聖服の管理、食堂係り、食糧倉庫係り、玄関係りなどなど、いろいろなことをして来ました。

その後、北海道の北広島修道院に移り、養護施設で働いていました。ある日 一人のシスターに出会い、保母の資格を取ることを勧められ、そこで保母の資格を取りました。それ以来、戸塚、亀田、種子島など40年以上、幼児教育に携わってきました。

振り返ってみると、私が10歳ぐらいの時、保母さんになりたいという憧れを抱いていたことを思い出します。神様は私の幼いころの憧れを、私の修道生活の歩みを通してこんな形で実現させてくださったことに、神様の不思議なわざを感じます。

与えられたこの長い幼児教育の中で、私は子どもに接しながら子どもの心に出会い、子どもから沢山のことを学び、気づかせてもらったことを感謝しています。特にイエス様がおっしゃる「幼子のようにならなければ、天の国に入れない。」というみことばが、どういうことなのかを子どもたちから学ばせてもらったように思います。

今は幼児教育の現場から離れた生活ですが、その頃のことを思い出し、感謝と喜びの日々を送っています。

img017最後に私の修道召命の奇跡ともおもえる不思議な体験を分かち合いたいと思います。第2バチカン公会議が終わり、修道者も家に帰省することができるようになりました。ちょうどその頃、父の病気が悪化して臨終を迎えようとしていました。長上は私が入院中の両親のもとで一か月間、看護ができるように許可を下さいました。そして病室で親子三人共に過ごす日々をいただき、父の死後、病室に母を一人残して私は修道院に戻って来ました。

ある日、聖堂の後ろに車イスに乗せられた母の姿を見て、私は自分の目を疑いました。なぜなら、母が滋賀県から戸塚の聖母の園老人ホームに移ってくることなど、私にはまったく知らされていなかったからです。それは長上のはからいでした。

入会前、入院中の父を見舞い、これが最後の別れと思っていましたが、父の臨終を看取ることができ、また、父の死後、一人残された母のことが心配でしたが、聖母の園老人ホームに入れていただき、私の居るところで死にたいと言ったことを思う時、神様のはからいの不思議さを、見せていただいたように思えます。私にとって奇跡としか思えない両親との再会は、神様が下さった私への贈り物と思い、感謝で一杯です。

―シスター大橋!貴重な素晴らしいお話しをありがとうございました。