マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

奉献生活者としての宣教 ― ローマ

Rome Mapローマの聖エウゼビオ教会で、奉献者の年の世界宣教の日の催しとして、2015年10月10日に、4人の修道者の分かち合いがありました。その一人が、Sr.Maria Carmen Ugarteで、奉献生活者そして宣教者としての体験の分かち合いをしました。その分かち合いを紹介いたします。

 

Rome 1兄弟姉妹への奉仕のために主にすべてを捧げるようにという主の呼びかけを感じて、私は、マリアの宣教者フランシスコ修道会に入会しました。その時、マリアの宣教者フランシスコ修道会のカリスマの中で特に心に惹かれていたのは、「フランシスカン」と「宣教者」でした。後に養成期間を過ごす中で、その二つに加えて「マリア」と「聖体礼拝」の二つの側面にも心惹かれるようになりました。

宣教者の召命は、マリアの宣教者フランシスコ修道会にとって、創立時からの「証印」です。私たちは世界宣教に捧げられており、「宣教者として、救いの福音を告げるために、どこにでも、また誰のところにでも行く覚悟ですが・・・中でも最も貧しい人々のところへ、優先的に派遣されます。」(会憲4)

誓願を立ててすぐ、私はブラジルに派遣されました。ブラジルでの14年間のうち、9年間をアマゾン川流域の未開の地で過ごしました。その後モザンビークに派遣され、昨年まで、22年間、そこで宣教していました。

しかし、なぜ、また何のために、宣教者になるのでしょうか。ヨハネの第一の手紙の最初の部分がそれをよく表しています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。― この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。― 私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:1-3

 この使徒の言葉は、まさに私がイエスとの関わりの中で体験したことを表現しています。私は、イエスの中に、愛によって私たちと共にいるために来られた神の姿を見ているのです。私がイエスとの間で体験している交わりこそが、ヨハネが私たちに伝えたいことなのでしょう。奉献者であり宣教者である私たちも、また、生活と言葉の証しによって、この体験を伝えたいと望んでいます。そして、この体験は、神からの恵みで、神のみ言葉の黙想と聖体礼拝によって豊かにされていきます。創立者は「聖体のイエスが、本会の第一の宣教者です。」と述べています。

私たちは、聖体礼拝の時、聖体のもとに、私たちが派遣されている兄弟姉妹の心配、苦しみ、そして喜びを携えていきます。そしてそこから、私たちの活動の活力を頂き、マリアのように御父のみ旨を果たし、創立者の「生きた福音のように世界中に出て行きなさい」という言葉のように、どこにでもイエスをもたらしたいと心から望んでいるのです。

モザンビークでの体験を少し分かち合わせていただきます。

モザンビークは美しい国で、人々は平和で穏やかな人々です。私が到着した1991年は、戦争中でした。この平和で穏やかな人々は、独立後3年から26年も続いた内戦を体験しなければなりませんでした。ポルトガルから独立したモザンビークは、マルクス・レーニン主義を取り、人民裁判、宗教弾圧、教区学校や修道会事業の国有化が進んでいきました。教会は若者に接触することが禁じられました。このような政府の方針に反対する政治家や知識人の間で、抵抗運動が起こり、内戦が始まってしまいました。

共産政府と内戦の間、多くの外国人宣教者が国を離れてしまい、土地の修道者が信徒のお世話をしていました。特に、小さな村に住む信徒のカテキスタの働きはめざましいものでした。彼らは本当に自分を捧げて、人々の信仰を守り抜き、自分の命さえ捧げ、殉教した方もおられたのです。

長期間にわたる戦争は、国土を荒廃させ、家、道、橋などすべてが破壊されてしまいました。1992年10月4日の平和協定の後、国の再建には、家や橋などの物的なものばかりでなく、社会、心理、道徳の面での回復が必要とされ、キリスト教諸派の教会は、和解と許しのために、共に協力して働きました。

Rome 2私は、最初の16年間、モザンビーク北部のニッサ州で活動しました。ニッサ州は、面積は国中で1番広く、人口密度は1番低い州です。小さな村は、それぞれが遠く離れており、医療センターやクリニックへは、何日も歩いて行かなければならない現状の中で、村の人々が司教に何かして欲しいと頼んだのでした。

そこで、教区は、簡単な初期治療を行える小さなクリニックを村ごとに開設する計画に着手しました。村、政府、教区の間で協力して計画を進めました。各村は二人ずつ(普通はキリスト者とイスラム教徒)このための養成を受ける人を選び、彼らは、土地にある材料で小さな家を建てて、クリニックに使います。政府が、養成と薬剤の調達に力を貸してくれました。教区が、養成の責任を取り、多目的医療従事者(被養成者はこのように呼ばれています)の同伴や、スーパービジョンに当たります。毎年、このような方法で、新たなクリニックを開設し、これまでに約50箇所でクリニックを開くことができました。そこでは、マラリアなどの治療と共に、病気の予防対策も行われています。

舗装もなく穴だらけの道を長く旅行したもRomeのでした。雨期には、車が泥水の穴にはまってしまうこともありましたが、幸いにも、この地域の保健衛生向上のために、少しは貢献できたのではないかと思っています。アマゾンのことわざに「貧しい人々の財産は健康」ということわざがありますから・・・

最後の6年間は、首都から220kmのところにあるナンプラ州に住んでいました。そこで、私たちは、ラウラ市の周りの村人と協力して、学校を建てました。公立学校はとても遠くなので、村の子どもたちはほとんど学校に行ったことがありません。シスターが何人かの親と相談して、土と竹を使い、ヤシで屋根をふいた小さな教室を建てることにしました。最初は2部屋作り、小学校1年と2年の教室にしました。シスターの一人が先生でしたので、政府にもう一人先生を送って欲しいと願い、学校を始めることができました。次の年にはもう3部屋を作り、5年まで勉強できるようになり、10人の先生で、子どもの数は600人にもなりました。

私たちの生活はこのようなものです。人々の必要に応え、すべての人々を愛し、奉仕しています。フランシスコ教皇の「福音の喜び」からの言葉で、分かち合いを終わりたいと思います。「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、全てのキリスト者は宣教者です。私たちはもう自分たちを『弟子』や『宣教者』というよりも『宣教する弟子』と言います。」

Maria Carmen Ugarte, fmm