マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-28

1914年に起きた史上最初の超国際的な世界規模の大戦争となった第一次世界大戦は、1918年11月に漸く終結しましたが、この4年間に900万人以上の戦死者を出したと言われています。欧州大陸を舞台として世界中を巻き込んだこの戦争によって、本会は大きな痛手を受けていますが、それでも4大陸に新しい修道院が創立されています。しかし、会長マリ・マダレヌ・ド・パジは自分の容態が一向によくならないことを知って、教皇に文書で辞表を受理してくださるように懇請した結果、1920年7月16日付で、布教聖省から会長の辞表を受理するとの知らせが届きました。 

第四代会長に選出されたマリ・ド・サン・ミッシェル

第四代会長に選出されたマリ・ド・サン・ミッシェル

1920年の総会

マリ・マダレヌ・ド・パジの会長辞任に伴う後継者としてマリ・ド・サンミシェルが選出され、第4代会長となる

1920年 (大正9年) 11月、第一次世界大戦後初めて開かれる総会に出席するために、全世界より24名の管区長と管区代表がロ-マに集合しました。この総会は、Mマドレヌ・ド・パジの再度の会長職辞任の申し出に布教聖省が応じた結果、新しい会長と本部評議員を選出するために招集された総会でした。本会の目覚しい拡がりの中で連続して起きた前会長Mレダンプシオンの急逝と、会長 Mマドレヌ・ド・パジの重い病気、また、中国と欧州での大戦とロシア革命による修道院の荒廃、過酷で危険な救助活動や飢餓で衰弱した会員の続出など、マリ・ド・ラ・パシオンが創立した「世界宣教」の会は、これまでにない大試練に直面し、この大修道家族を再興するために堅固で柔和な導き手を必要としていました。そのような時に、管区代表の一人として総会に参加していたマリ・ド・サン・ミッシェル (Marie de St. Michel) が新会長に選ばれたことに、誰もが摂理的なものを感じていました。Mサン・ミッシェルは、創立者から「サン・ミッシェル(大天使 聖ミカエル)」の修道名を受けた時、「あなたは本会の聖ミカエルになるでしょう」と言われていたからです。この日の感動的な出来事は、知らせを待ちわびていた日本の共同体にも管区長の手紙を通して伝えられました。それには次のように書かれていました。

12月7日、会長選挙とそれに伴う慣わしの儀式が布教聖省の長官ヴァン・ロ-サム枢機卿様とフランシスコ会総長様の司式で行われました。枢機卿様が起立されて「神に感謝」と言われた時、私たちの胸は感動で高鳴りました。メ-ル・サン・ミシェルはご自分の名が呼ばれると、涙ながらに枢機卿様の足元に膝まずき、ご自分がこの務めに全く相応しくないことを公言なさいました。枢機卿様は、お心のこもった励ましの言葉をかけられ、会長の指輪をお渡しになりました。そのあと前会長のメ-ル・マドレヌ・ド・パジが新会長をしっかりと胸に抱かれた時はとても感動しました。

創立者マリ・ド・ラ・パッションのお墓
創立者マリ・ド・ラ・パッションのお墓

メ-ル・サン・ミシェルは 創立者のお墓の前で、暫らく祈られた後、共同体の御挨拶を受けられました。姉妹一人ひとりに何かおっしゃりたくても涙で消されてしまいました。会長職という重責を頂くなどとはご自分の名が呼ばれるまで、まさか夢にも思っていらっしゃらなかっただけに、メ-ルの涙がよく理解出来ました。 会長様はやっと涙を抑えながら「枢機卿様は『会長が一番聖なる人、一番頭の良い人である必要はありません』とおっしゃいましたが 実際、私は聖なるものでも学者でもありません。ただ 枢機卿様が『会長は愛する人でなければなりません』と言われたように私の心、私のもてるもの全て、私の存在の全てを皆様にお捧げしたいと思います」と言われ、「一緒に創立者の精紳を生きていきましよう」と呼びかけられました。

お昼の休憩時間に、私たち33名の総会メンバ-は 一人ずつ菊とバラの一枝を「いたずらっ子」のような顔でメ-ル・サン・ミシェルにお捧げいたしましたが、実はこれはベルギ-のアンヴェルスのアトリエで作られたもので、メ-ル・サン・ミシェルは選挙が終わった時、ご自分の手で新しい会長様にお捧げするつもりでご自分の部屋に大切に隠して置かれたものでした。 

日本管区第三代会長マリ・ステファニ・ド・ジェズ

日本管区第三代会長マリ・ステファニ・ド・ジェズ

「メ-ル・サン・ミシェルが創立者のお墓の前で祈られた」と書きましたが、そうです、小さな聖堂(シャペル・ブル-)と、お墓の間の戸が取り除かれて大きく開かれたのです。今からは創立者のお墓のある小部屋へ入って行くことができると聞いて、皆さんはどんなにお喜びになることでしょう。お墓は古代ロ-マの石棺の形をしていて、周りに巡らされているフランシスコ会の縄帯は「ここに救いのしるしあり」という字で飾られており、ならわしの墓標の両側に二本の百合があり、そのどれもが白い大理石で出来ています。私たちの誰もが心から慕ってやまない創立者のお側で祈ることができるとは 何と素晴らしいことでしょう!

昨夕、「無原罪の聖母」管区の皆様のために新しい会長様からお心のこもった祝福を頂きました。この手紙は、管区の全ての修道院に送られますから、これを機会に管区の各修道院 :ミラノ、トリノ、サン・レモ、サッコ(イタリア)、ルガノ(スイス)、上海(中国)、琵琶崎、人吉、久留米、札幌(日本)、リパ、アティモナン(フィリピン)の愛する姉妹の皆さんに心を込めて挨拶を送ります。    Marie Stephanie de Jesus Crucifié fmm

創立者の言葉通り、堅固で柔和な導き手のM サン・ミッシェルは、戦争で倒壊した修道院の修復、会員の病気回復に必要なサナトリウムの新設、会員相互の伝達手段としての広報誌の発刊,さらに、インド、セイロン、ビルマの辺境地での宣教体験を生かしたオブラ-ト制(*)の導入など、会の宣教史に新しいペ-ジを記しています。会長職を退いたMマドレヌ・パジは、ロ-マとグロッタ・フェラ-タの修道院で祈りと病苦の日々を捧げ、1936年まで会の「モ-ゼ役」として非常に困難な時代に会の世界宣教を力強く支えました。

*オブラート制については次回に説明いたします

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1920年の総会出席者