マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

マダガスカル

教員養成学校の発足(マダガスカル)

アンタンポンジナの宣教はフィナランツォアの教区によってカプチン会に委ねられています。ブラザーたちは私たち FMM のシスターたちの協力を要請されました。それで私たちがこの地に来て10年がたちました。以前は誰も住んでいなかったアンタンポンジナの丘は周辺地域に住む貧しい子供たちのための教育の場になりました。それは、聖クララセンターで、そこには少女たちのための裁断や縫製の学校、食堂がある小学校、それに地域の若者たちのための広大な運動場があります。
2006年10月、聖クララセンターで祝日が祝われていたそのときに、一般教員養成学校の落成式が行なわれました。カプチン会のブラザーたちとFMMのシスターたちの存在がもたらしたこの援助によりこの地域には多くの人々が集まり、フィナランツォア地方の役所の役人たちがやってきました。落成式にはこの地方の自治体の行政長官、教育長の地域責任者、地方代議士の方なども出席されました。シスターブランディンfmmがこの教員養成学校の校長に任命されました。カトリック教会側からは司教代理、カトリック教育教区担当責任者、フィナランツォア地域のカトリック専門学校の校長たちが兄弟的支えを示すために出席されました。

祝賀は美しい教会の中で、荘厳なミサ聖祭が歌と感情を豊かに表現したダンスと共に始められました。大聖堂に響き渡る子供たちの美しい歌声が聞こえてくるようです。出口のところでは、子供たちが列をつくり、参加者が教会から種々の催しが行なわれている場所へ移動できるように助けていました。

聖クララセンターの生徒たちによるダンスで式典が始まり、次々と代表者によるスピーチが行なわれました。少なくとも8人の来賓が話されました。この地方の習慣で、どんなお祝いもスピーチが必ずあります。沢山のスピーチは12時から14時30分まで続きました。その後、リボンのカットがあり、学校の建物内の教室の祝福が行なわれました。祝宴は漸く午後3時に、活発な先生方の挨拶で始まりました。

アンタンポンジナの丘は様子が変わっただけではなく、人々の考え方にも影響を及ぼしました。教会や社会において、キリスト者たちの責任が重くなりました。私たちシスターはここで働き、若い女性たちの職業訓練、生徒たちの教育、教会の司牧活動、要理教育などの仕事に従事しています。人々の存在を通して聖霊が働いておられるのを感じます。(注:この学校の建物は後述の曽野綾子氏代表のJOMASの援助で建設されたもの)

一人の日本人シスターの帰天
一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。
(ヨハネ 12 : 12 )
12月17日、クリスマスが近づき、何かと忙しくしていたFMM日本管区に青天霹靂のような悲しいニュースが修道院を駆け巡りました。「マダガスカルのミッションで頑張っていらっしゃるシスター遠藤が帰天されました!」誰も一瞬、信じることができないニュースでした。
今回は「世界の FMM 」のページにマダガスカルの記事を選びましたので、それに併せて、今は天国で永遠の休みに入られたシスター遠藤に関することを少しお知らせしたいと思います。

シスター遠藤は1977年に約2年間のミッション派遣の準備をローマ、フランスで受けた後、1979年10月にマダガスカル管区に派遣されました。キリストのみことばを伝え、助産師として、現地の方々のためにすべてを尽くして働かれました。生活を共に分かち合った土地の人々、彼女とそのミッションのためにあらゆる援助を惜しまなかった国内外の友人たちの支えにいつも感謝しておられました。昨年、10月6日には、アヴェ・マリア産院の60周年記念にあたり、マダガスカルの政府から最高の勲章(Ordre de Chevalerie) を他の2人のFMMと一緒にいただいたところでした。カトリック作家の曽野綾子氏はもう随分長い間、海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)という組織を通して海外の司祭、シスターたちのミッションを援助してくださっていますが、マダガスカルのアヴェマリア産院もその援助をいただいてきました。また、曽野氏が書かれた「時のとまった赤ん坊」にはシスター遠藤のことが書かれています。

2006年に「日本カトリック海外宣教者を支える会」を通して援助をいただいたお礼の手紙が会報に掲載されていましたので、その中から少し抜粋いたしましょう。

『日本管区を通じて私どもの申請が許可されたとの知らせが届き、感謝の気持ちでいっぱいです。すでに緊急を要する輸送患者が出ています…私がこちらに戻ってから、ある貧しい家庭の主婦が、その子供はまだ幼いのに、結核に冒されて悪化をたどる一方でした。すでに家族の 4 人が結核で亡くなっています。一日も早く治療を受けさせるにはどうしても援助が必要です。どうして彼女に援助の手を差し伸べずにいられましょうか …農繁期の今、マダガスカルでは農家の人々は経済的に貧困のどん底にいます。診療代も支払えるときに払っていただくというシステムにしています。そうでないと、お金がないからという理由で、もう最悪の状態、手遅れの状態でやってくるのです。どうしてこんなにまで … といいますと、皆さんお金がないから来られなかったと、同じ答えをします。そのことをもうすでに知っている私はどうしたらよいのでしょう …会の皆様、ほんとうに海外宣教者を援助し続けていただきありがとうございます。一人でも多くの人が自立への道を開き、普通の生活ができるようになることは素晴らしいことですね。』
休む間もなく働いていたシスターの具合が悪くなったのは、昨年暮12月13日(水)のことでした。夕方より具合が悪くなり、熱が出たり、下がったりなど、マラリアの疑いもあったようで、お薬を飲んでもあまりよくならず、注射をしても改善されないので、近くの国立病院の先生に診ていただいたのですが、原因が分かりませんでした。飲食もできなかったようで、15日(金)の夕方には点滴をし、翌16日朝早く、救急車でアンチラベの病院に運ばれる途中、息を引き取られました。

18日の葬儀ミサにはシスターが15年間働いていたアンチラベで、土地の司教様をはじめ、15人の司祭によって荘厳に行なわれました。ミサ中の説教ではシスター遠藤がいかに貧しく小さな人々のために尽くし、助けたか、また、彼女の祈りがいかに霊的に深いものであったかを話されました。アンチラベにはシスターの知人も多く、葬儀の参列者は聖堂に入りきれないほどでした。最後のお別れでは参列者たちは皆泣き出し、どれだけシスターが皆に慕われ、愛されていたかが分かりました。今はタナナリブにあるFMMのお墓で眠っておられます。